「現実はしばしば「お試し」をしてくる」に続く記事です。それを書いている時に気づいた「感情」にまつわるお話。
この話にはまず前提があるのです。
前提:感情には良いも悪いもない
心理を学んでいくと、自分のうちから湧いた感情はただ真実であり、ただ感情であることがわかってきます。
良い感情と悪い感情が別々に存在しているのではなく「全体」があるだけで、感情を良い/悪いとジャッジしているのは自分。これまで培ってき(てしまっ)た価値観。
一般的に言われるワクワクやドキドキのポジティブな入れ物と、イライラやムカムカのネガティブな入れ物があるのではなく、ただ1つの感情っていう入れ物があるだけなのね。
だから、ワクワクやドキドキだけを受け取ることや、イライラやムカムカだけをなかったことにすることはできない。それが感情。「全体」を受け取るか否か。
イライラやムカムカをなかったことにしたくてプイッと目をそらすと、実はワクワクやドキドキからも目をそらすことになっているんです。
「どんな感情もあり」ってことが前提。
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他人や他人の作品に心が反応する
他人の活動や作品を見て感動すること、あるよね?
それってね、その方や作品からあなたが感じた「感性」や「可能性」と同じものが自分の中にもあるってこと。そうでないと人は感じることができません。
また、他人の活動や作品に嫉妬したとしましょうか。
いやな感覚かもしれないけど視点を変えて見るとね、 これも上記と同じく、その方や作品から感じられる「感性」や「可能性」と同じものが自分の中にもある、と言えるのね。
だから、「わぁ、すごーい」と感じることも「クッソ〜、あいつめ〜」と感じることも根っこは一緒。
心が反応したってことは自分に気づけるサイン。「私、実はこれがあるんだ!」と気づけるタイミングです。
感動も嫉妬もホントは歓迎すべきことなんですよ。
自分は自分にしかなれない
ここで大事なことは、自分は自分にしかなれないこと。
同じ「感性」や「可能性」を持っていても自分は自分。人は皆、自分の人生を生きることしかできない。別の人にはなれないし、その作品と同じものは作れない。
これを知っているととっても楽だよ。
ただ自分を出していけばいいだけだもん。
心動かされたワクワクやザワザワがあったら、それをベースにしてもいいし、しなくてもいい。他者と絶対に同じにならないから平気へーき。なんならどんどん真似したっていい。そんなんでぜーんぜん良いよ。
自分は自分にしかなれないからこそ
ただ自分を出す。
その上で、
- 自分はどうなりたいのか?
- どう生きたいのか?
- どんな部屋に住みたいのか?
- 誰といたいのか?
- 何をしたいのか?
- 何をしたくないのか?
など、自分のヴィジョンを考え、目指して、他の誰でもない自分を出していくことが「自分の人生を生きる」ことだと僕は思う。
おわりに
「極めて個人的なことは実は超普遍的なこと」という言葉を聞いたことがあります。
ということは
映画「君の名は。」のように、多くの人を感動させた作品には製作者や表現者の「感性」や「想い」、つまり「極めて個人的なこと」がつまっているはず。
そこに反応した人が多いということは、製作者や表現者と同じ「感性」や「可能性」、もっと言えば「求めているもの」を実はみ〜んなが持っているってことなんだろう。それを普遍というんだし。
だから、心が動いた時こそ、どんどん表現してっていいと思うんだよね。カタチはなんであれどんどん遠慮なくね。
そうやって自分を生きていきたいじゃん?
今は心を動かされる側にいるかもしれないけど、心を動かす側にだってなれるんだから。