僕が読んだ本「一生お金に困らない生き方」や「嫌われる勇気」にはこんなことが書かれています。
この自分にどれだけの価値があるのか、ではなく、「あると思っているのか」が、自分が認める「自分の価値」。
そしてその価値を具体的にあらわすパロメーターが「存在給」というわけです。つまり何もできていない、誰の役にも立たない、何もない自分の価値が「存在価値」です。
そして、役に立たない、ごくつぶし、迷惑ばかりかけているこの自分がもらっていい収入が「存在給」です。
〜「一生お金に困らない生き方」より〜
ここにいるだけで、価値がある
〜「嫌われる勇気」より〜
これって読んだだけではイマイチ分かりにくい概念ですよね。腑に落ちにくい。
でも「存在給ってこういうことじゃないか?」、「居るだけで価値があるってこういうことじゃないか?」ということを垣間見れる出来事がありました。
今回は観念的なお話で抽象的な内容です。主に同じ本を読んだ方に向けて、自分の感じたことを伝えます。
祖母の写真
急遽(母方の)祖母の写真が必要になりました。
ところが、過去そんなに写真を撮った記憶がない祖母。自宅にあるアルバムを捜索することに。そしたらね、懐かしい思い出とともにたくさんの写真が見つかりました。
- ばーちゃんめっちゃ若ぇ!
- 笑顔がステキ!
- それから、父も母も若ぇ!
- あら〜ふたりとも若い時はこんなだったんかい!
というふうに、いい意味でびっくりしました(笑)
でね、昔の写真を見ていて感じたことがあるんです。それはね・・・
居るだけで笑顔があふれていた
僕が生まれたての0歳児だった頃の写真。
僕を抱っこする父や母、そして祖母。みんながみんな笑顔なんですよ。もちろん、もう片方の祖父母や叔母までみーんな笑顔。すごく幸せそうなんです。
何が言いたいかというと、生まれたての僕は何もできない存在でした。でもね、周りにいる人々を笑顔にしていたわけ。
何もできないけど、「居るだけで笑顔にしていた」というコトを起こしていたわけね。
だからね、
- 何もしなくても価値がある、という存在給
- いるだけで価値がある、という「行為」ではなく「存在」のレベルで見る
ということは、つまり「そういうこと」なんじゃないか、と思ったわけ。居てくれるだけで生まれるナニカという感じ。
もちろん、いろんな家族事情がある、という現実はあります。幼少期も今も「笑顔?そんなもんないよ!」という方もいらっしゃるかもしれない。
でも、少なくともうち(僕が解釈した過去)は「幸」だったと信じてる。
今の自分でも「在る」んですよ
今回は僕のお子様時代を例にしましたが、「今のあなた」でも「そういうこと」はあるはずです。
だって、お食事会でもカラオケ会でも、あなたがいるから、あなたもあなた以外も笑顔になっているシーンがひとつはあるはず。だから、今の自分でも存在給は「在る」んじゃないかな。
存在給ってなんだ?と感じている方は、そのような出来事を思い出すと、何かつかめるのではないでしょうか。
おわりに
今回の話は観念的なことです。
でも、僕の中ではなんとなく「存在給」ということがつかめた瞬間でした。本を読んで内容だけ頭には入ってはいたけど、ようやく実感が伴いました。
『 ばーちゃんへ
急遽写真が必要になったということで、以前から覚悟はしていたけど、ビックリだったよ。でも、一連の作業でここに書いたような気づきがありました。これって、ばーちゃんからのプレゼントなのかなぁ。
ばーちゃん、安らかに眠ってね。今までありがとう! 』
昔の写真を探したときに良い気づきに出会えた、梅雨のある日のお話でした。